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1行紹介

おんじゅくオーガニックというNPO。鶏卵牧場で牛舎8号のマネージャーをしています。

自己紹介文

 ジャーナリストになって、本当の平和を追求したいというのが学生時代からの私の夢でした。
 大学1年生の時に、環境サミットがブラジルで行われました。
 その時に目にしたニュースは、警官が街の路上生活する少年達を「目障りだ」という国家のメンツだけで殺してまわっているというものでした。
 今では常識(!?)となっているこのようなニュースですが、当時の私には衝撃的で、それから今までの常識というものが信じられなくなりました。
 アメリカン・インディアンの迫害の歴史や、差別問題等に前々から関心はありましたが、ブラジルでのニュースをきっかけに、ますます「世界」への疑問・不信が募っていきました。
 やがて、真実を見極めるためには、世界へ飛び出すしかないと思った私は、その準備として、とある語学系の大学に進学しました。
 そこで、ごく平凡な学生生活を送っていたのも束の間、私はすぐにその生ぬるい学生生活に厭気がさしてきました。
 もう遠回りをするのはやめにして、どこか手始めに一年位外国へ行ってみようと思い立ちました。
 しかしながら、大学(特に私立大学)というものは、一年間休学するのにも、籍を置くためだけに学費の半分という莫大な費用が掛かります。
 これはおかしいということで、私は休学費反対の署名活動を始めました。
 結果として、2000枚以上の署名を集めました。
 しかしながら、大学側はもちろんこちらの意見に耳を貸そうともしませんし、学生の側からも当局の報復を恐れてか、休学費は仕方がないという論調が出始めました。
 同じ立場の学生達から、当局側と同じ意見が出始めたことに私は大変失望し、幻滅しました。
 そんな時に、たまたま早稲田の吉村作治さんが講演にいらっしゃいました。
 最後の質問時間に、吉村さんが私を直々に指名して下さったので、私はこれまでの大学に対する活動や思いを全て公の場でぶちまけました。
 吉村さんは少々苦笑い気味でしたが、こうおっしゃいました。
 「私はこの大学に呼ばれて来ているので、公には言えないが、大学は、学校を休学して世界を見てまわろうという生徒達がいれば、応援するくらいじゃないと駄目だ。君も本当にやりたいことがあるのなら、大学なんかに縛られずにやめればいい。」
 私の決意は固まりました。
 初めての地は予算的なこともあって、現地で働くことのできるワーキングホリデイで行くオーストラリアでした。
 安易な選択でしたが、そこでは私のこれからの人生を大きく左右する二つの出会いがありました。
 その一つは、地平線まで続く果てしない牧草地帯で草を食む馬達との出会いです。
 乗馬経験のなかった私ですが、恐る恐る馬に近づき、馬の匂いを嗅ぎ、初めて馬の背に跨った時、それまで日本にいた時のわだかまりやほんの少し残っていた後悔や不安が、空の青や草の緑にすーっと消えていくように感じました。
 それは全く理屈では説明できない出会うべくして出会った切り取られた時間でした。
 もう一つはビル・モリソンの提唱するパーマカルチャーとそれを実践するオルタナティブな人々です。
 自然に耳を傾け、争い事を好まず、自然と共に生きる道を選んだ人達のコミューンやファームが至るところにあり、聞けばそのネットワークは世界中を網羅しています。
 今の消費文明のまさにコインの裏側の世界を私は初めて目の当たりにしたのです。
 有機・自然農業、自然エネルギー、ヨガや瞑想に盲信することなく、あくまでも理性的に科学的に取り組む人々に私は人類のもう一つの進歩の形を見せられたようで気分がひどく昂揚しました。
 帰国後、私は当然、現実にぶつかりました。現実とはすなわちお金です。
 私はスポーツ新聞の求人欄を調べ、二駅ほど離れた(奈良駅)土建屋へ日雇いの土方として働き始めました。バブルの名残のある当時は、今日連絡すれば明日には仕事があり、一日13000円の現金をもらうことができました。集合場所の飯場には地元の土工や職人達が寝泊まりしていました。その地区はいわゆる同和地区のど真ん中でした。大阪の釜ヶ崎からは、多数のアン工(漢字は不明、日雇い人夫の意?)が早朝のバス(ワゴン)で奈良の現場までやってきました。
 飯場と同じ場所の事務所には、どう贔屓目に見てもカタギには見えない人達がいました。一人はパンチパーマのインテリ風で仕事の手配をしていました。社長や社員達は、木刀やバットを片手にその辺をうろうろしていました。
 私の初めての建築業界での職場でした。
 仕事は、大きな現場内の、その他大勢の中の一人で、雑用ばかりでしたが、次第に慣れてくると、作業員の送迎とまとめ役を任されるようになりました。ほとんど毎日作業員は入れ替わるので、レギュラーメンバーは貴重な存在なのです。朝、全員の日当を預かって、作業後みなに手渡すのです。
 人は誰かに必要とされることに喜びを感じるのだと思います。日雇い労働者達はその日限りのチームとはいえ、みな進んで一生懸命働きました。
 釜ヶ崎から来た人達は北海道から沖縄まで幅広い出身の人達でした。明日野垂れ死ぬかもしれないと笑って言っていた沖縄のおっちゃんのわけてくれたコロッケの味や、用事を頼むと「よっしゃ、わかった!」と言って一輪車を押して走っていったおっちゃんのうつむいた笑顔が忘れられません。

 毎日、日雇い仕事をする私を見るに見かねて、兵庫県にある住宅設備会社の社長が声をかけてくれ、初めて正社員として就職することができました。そこで、本格的に水道や建築屋の技術や機械の操作方法などを教わりました。
 ある日、友人が送ってくれた新聞記事で、すぐ近くでジャーナリストが「山猿塾」というものをつくって自給自足生活をしているということを知りました。いてもたってもいられず会いに行きました。トヨタやIBMと闘い、『ニッポン丸はどこへ行く』などの著書を多数著した青木慧氏です(今年ガンで他界)。意気投合した私は、山猿塾へ通うようになり、そのうち、小屋を間借りして住み着くようになり、最後には間伐材をもらって自分の小屋を建てて住むようになりました。
 大企業への批判に明け暮れていた青木さんがどうして田舎に引っ込み、自給自足生活という隠遁生活のような暮らしにはいったか?当時の大多数の人々にはとても理解されることはありませんでした。彼にとって、それはジャーナリズムの延長線上であり、実践でした。
 私も当時、頭ではわかっているつもりでしたが、本当にそれを理解するのはまだまだ先のことでした。
 私はどうしても日本以外の世界をもっともっと自分の足で歩いて見てまわりたいという衝動を抑えることができず、またそれがジャーナリストになるための方法だと思っていました。
 私は、山猿塾を出ることにしました。
 香港からイギリスまで、ほとんどを陸路で横断しました。
 その旅を皮切りに、紛争地帯をはじめ世界各地を歩き回りました。
 世界三大地雷地帯のうちの二つカンボジアのK5とアフガニスタン各地を歩き、足を吹き飛ばされた多数の人々と出会いました。
 その多くが原っぱや川辺で無邪気に遊び回っていた子ども達でした。
 おもちゃの形をした地雷があり、一つの工場内で地雷と義足を作っている所もありました。
 ほとんどの人がカメラを向けると、嫌がるどころかどんどん撮って世界に知らせてほしいと言いました。
 また、地雷の外側の金属ケースをクズ鉄屋に売って1ドル稼ぐ為にハケ一本持って命がけで地雷を除去して回るディマイナーと呼ばれる人達も多くいました。
 カンボジアの首都プノンペンではシアヌーク広場で集会中の群衆に4発の手榴弾が投げ込まれた現場に居合わせました。
 大混乱の中、人間というのはまさに赤い血の塊なんだと呆然と思いました。
 カンボジアとタイの国境地帯にある町パイリンは、ポル・ポトによって封鎖されていました。外国人は立ち入り禁止区域でしたが、私はタイの材木商だと偽り、20もの検問を越えて潜入することができました。
 そこは、ルビーの一大産地で、雨が降ると、住民は地面を見て歩き、ルビーの原石を探して歩くという「ルビーの降る町」でした。一旦、入ってしまうと、そこは古い大きなパゴダのある平和な町でした。入ってすぐに小ぎれいな身なりをした5人の若者達と出会いました。最初は私にルビーを売りつけるつもりで近づいてきたようですが、すぐに仲良くなり、いろいろなところをみんなで案内してくれるようになりました。
 ポル・ポト兵が厳戒態勢を強いているため、誰もが一握りのルビーの原石を持っているにもかかわらず、家には鍵すらもありません。
 町の郊外の山は、タイのマフィアとポル・ポト軍の巨大なユンボによって丸裸にされ、流れ出る赤土の混じった赤い水をざるを持った労働者達が浚ってはルビーの原石を探しているのでした。
 丸裸の山々の周りにはところどころ緑の森が残っているところがありました。そこには、地雷が残されており、採掘者達は入っていけないのだということでした。地雷が人間の欲望から森を守っているという皮肉な状況でした。
 若者達は、最後に友情のしるしとして一つの比較的大きなルビーの原石をくれました。
 私には値打ちはわかりませんでしたが、帰国してからカットしてもらうと、10万円以上のものだということでした。
 私は、後にそれを指輪に加工して結婚指輪にしました。
 けれども、私はどんなにお金がいっぱいあったしても宝石を買うことは一生涯ないでしょう。

 アフガニスタンでは、砂漠での銃撃戦のさなかを20人乗り民間マイクロバスでノロノロと走り抜けました。
 毎日、長距離砲の途切れない爆音の下、人々は普通に日常生活を過ごしていました。
 夜にはタリバンによる拷問の悲鳴が聞こえてくることもありました。
 2回ほど狙撃され、知らずに地雷地帯を歩きました。

 当時は、危険地帯を歩き、社会の下層にいながら、ペンやカメラによって社会の裏側を抉り、世界中の悪を追及することが、ブラジルの少年達のような被害者を解放することだと信じていました。
 確かに舌鋒鋭いジャーナリストや社会活動家は世の中に必要です。その情熱や魂には賞賛と感謝の念を禁じ得ません。
 しかしながら、そういった活動だけでは、大多数の人々は行動に移そうとしないように思えましたし、その方法がわからないように思えました。
 なぜなら、あまりにも多くの偽情報や暴力的な映像が世の中に出回り、日常に満ち溢れていて人々の感覚を麻痺させているからです。
世界の事実を伝えるという活動だけでは対症療法でしかなく、根本の解決療法は日常生活の改善からだと思いました。
 例えば、現在では、私達の郵便貯金で日本政府が、双子の大赤字を抱えたアメリカの国債を買うことによりアフガニスタンやイラクで戦争が可能になりました。
 また「100均」に象徴されるような消費社会は地球的な不平等が生んだものです。
 
 事実を見て、それから先にどうしていけばいいか考える必要がありました。
 私は、無力感に苛まれました。
 私は何かに導かれるように、沖縄に行きました。
 何のあてもなかった私は乗馬クラブに住み込みで働くことにしました。
 そこは、海の見える丘の中腹にあり、馬12頭、犬や鶏、山羊が自由気ままに遊ぶ、まさに天国のような所でした。
 昼間は米軍基地内のアメリカ兵の家族が遊びに来て馬に乗り、夜は地元の沖縄の人達が馬に乗りに来ました。
 休日は、みんなで馬に乗って隣町まで出かけ、海では人も馬も裸で泳ぎました。
 戦争と侵略の歴史とそれに続く現在に敢えてお互い目をつぶるようにして、他の誰よりも沖縄とアメリカと内地の人間が仲良く生きているかに見えました。
 12頭の馬達が、歴史も現在も人種も超えて、私達を強く優しく結びつけたのでしょう。
 馬を通して知り合った友人は、強い絆でむすばれます。時として、その深い絆が修復不可能な傷をつくってしまうことがあります。
 私はこの天国に永住することはできませんでした。
 
 後に訪れたニュージーランドで私は旅の原点に立ち返りました。
 私はWWOOF(Willing Workers Of Organic Farm)という、オーガニックの農場で、働くことを条件に寝食を提供する国際的なネットワークを利用して旅することにしました。
 そこでは、至るところで、自給自足的な暮らしをしたファームがあります。
 それは基本的に一家族ですが、その家の敷地(もちろん日本より相当広いですが)で、全てが完結し循環しています。
 経済的には「貧しい」のかも知れませんが、暮らしは日本のそれとは比較にならない位豊かです。
 広い敷地と家があり、丘の上には馬がいて、ヨットが入り江に浮かんでいます。
 庭には果樹があり、小さな畑には家族だけではとても消費できないくらいの野菜が一年を通して栽培されています。
 素敵な隣人がいて、庭先で、近所のうわさ話から環境問題や世界のニュースについてまでおしゃべりしています。
 国としては、面積も日本よりも狭く、人口も400万人程度の小国です。
 しかしながら、超軍事大国の原子力潜水艦の入港を断固としてはねのける力を持った、れっきとした独立国です。
 もちろん、国としての成り立ちや白人優位主義には大いに問題がありますが、多くのヒントやインスピレーションを得ることができました。

 家族単位で全国民が独立すること。
 それが結果的にあのブラジルの少年達の様な犠牲者をなくすことができる。
 そのモデルを創ること。
 それを言葉だけでなく、毎日の生活を通して証明すること。
 青木さんの言いたかったこと、やりたかったこと。
 それが私のジャーナリストとしての生き方の答えでした。
 現在、職業人としてのジャーナリストは、スポンサーや政府のスポークスマンに成り下がっている自称ジャーナリスト人が大多数だと言えます。大手新聞社やTV関係者に一体何人の真のジャーナリストがいるでしょうか?
 生きるための手段を他に持ち、自分のジャーナリズムに従って行動できる人こそがどんな仕事をしていても本当のジャーナリストだと思うのです。
 帰国後、私はまたしても浦島太郎でした。世界20カ国を周り、沖縄に住んでいた私は、経済大国ニッポンではただの変わり者でしかありません(実際そうなのですが)。
 NZで出会った妻と、家財道具一式を軽バンにぎっしり積みこんで、千葉県は御宿町にある義父が十数年前に買ったという別荘地(更地)だけをあてにやってきました。目指すは有機農業をベースに自給自足生活でした。植物や動物が好きとはいえ、妻もよくついてきてくれたものだと思います。
 なぜだかわかりませんが、そこは私にとっては聖地のように感じました。ススキが人間の背丈よりも高く生い茂るジャングルでしたが、私たちは猛然と草を刈り、ススキの根っこをスコップで掘り返すという気の長い作業を行いました。
 さすがに、当初の計画通りテント暮らしというわけにはいかなかったので、ボロ屋を借りました。そこの大家さんや紹介してくれた不動産屋さんとは今でも仲の良い友達です。
 生活のために始めた仕事はやっぱり土方でした。バブルは既に終焉を迎え、日当も8000円にまで(9000円にすぐに上がったものの)下がりました。
 何の保証も保険もなく、妻は不安で一杯だったでしょうが、私は相変わらず夢に向かってまっしぐらでした。
 やがて、人生最大の冒険に出くわしました。妻の妊娠と出産です。
当時の日記。
「2003年12月4日
妻の出産に立ち会った。
陣痛の痛みを和らげるためと過呼吸を防ぐためにフーッと息を吐く妻がかわいそうで涙が出た。
私は汗を拭き、手を握ってやることしかできない。

へその緒が赤ちゃんの首に絡まったため、急遽鉗子分娩になった。
10人以上がバタバタと一室に集まる。
着替える間もなく私服のまま駆けつけてくれた医者もいる。
大きな男の医者が妻の大きな柔らかいお腹を体重をかけて力一杯に押す。
もう一人の医者が鉗子を使って赤ちゃんの頭を引っ張る。

ぬるっと白っぽい赤ちゃんが引っぱり出された。
安堵と喜びで涙が溢れる。
赤ちゃんが産声をあげる。

しかし、その姿を見せてもらうこともなくすぐに医者達に連れて行かれた。


「お父さん、赤ちゃんのことでお話があります。」

今まで感じたことのない不安に倒れそうになった。
妻の笑顔が頭に浮かぶ。
半ば放心状態で入院手続きをする。


1時間後、私だけだが、ようやく赤ちゃんを見ることができた。
「あれっ!」
とうれしい拍子抜け。
ピンクのまるまる太った健康そのものの赤ちゃんが大あくびをしてすやすや眠っている。

2821グラムの女の子。

様々な灰色の機械がそびえ、それらの電子音の嵐の中で、その小さなベッドの中だけは、まるで天国のかけらが敷き詰められているようだった。


先生の話では、お腹の中で新生児仮死という酸欠状態になったため、急遽鉗子分娩にしたらしい。
そんなに頻繁ではないが2、30件に1件はあるという。
迅速な対応と他の医者達の応援のおかげで酸欠状態はほんの短時間で済み、5分も経たず完全に回復することができた。
大事をとって、新生児の治療室に入れてくれたようだった。


その夜は移動の必要がなく個室だったので、無理を言って妻のベッドの横に泊まらせてもらった。
本当はダメなのだが、看護婦さん達はマットやシーツを敷いてくれた。
二人共ほとんど眠ることなく語り明かした。
あれほど幸せを感じた夜はなかった。
世の女性がなぜ戦争を起こさぬか少しわかった気がする。」

 しかしながら、実質、日雇い土方仕事に頼る不安定な生活は、慣れない赤ん坊の世話をする妻には不安で仕方がなかったようでした。私の情熱と夢は空回りする一方で、父親にもなりきれず、赤ん坊の笑顔にかろうじて支えられながらも私たちの生活は破綻寸前でした。
 同時に、建築や土木のことがようやく解り始め、屋上緑化やエコ建築についても私はもっともっと勉強したいと思うようになりました。
 そういう状況から、妻の先輩の東京にある建築会社に就職することに決め、泣く泣く御宿を離れることになりました。生まれて初めてのサラリーマン生活です。
 都会はもともと嫌いでしたが、花の都といわれるくらいだから、東京にも花があるだろうと淡い期待を抱いていましたが、それも粉々に打ち砕かれました。東京での生活はどんな砂漠地帯や戦争で荒廃した地域よりも、私にとっては寒々しく悲惨なものでした。知り合いはたくさんできましたが、友達は一人もできませんでした。
 おかげで勉強に打ち込むことができ、現場監督としての試験にもすぐに合格することができました。
 また、安定した環境の中、次女も無事誕生し、長女の成長と共に仕事への大きな推進力となりました。
 工事の施主は東京都や東京電力が多く、責任逃れや中間管理職を養う為の膨大な書類や会議に多くの時間とお金、資源が浪費されているのを見ることができました。それらの負担は全て末端の労働者の労働条件へとのしかかっているのです。
 屋上緑化やエコ建築とはほど遠い仕事でした。
 東京での暮らしから一時的にでも逃げるように、何かと理由をつけては定期的に御宿に通いました。御宿の人々、私の聖地、海、山は私に希望を与えてくれ、いつか必ず帰ってくると誓いました。 
 1年半の東京での暮らしの後、その機会は訪れました。
 最初にボロ屋を紹介してくれた御宿の不動産屋が、仕事として田畑や建てものの管理をしてくれる人を探しているとおしえてくれたのです。その時の電話を、工事現場の地下鉄ホームで受けたのですが、空をも飛べる気分でした。
 その社長は、私にとっては迷える子羊を聖地に再び導いてくれる救世主でした。
 感情を素直に伝えることが苦手で、厭味や皮肉ばかり言う人でしたが、心は誰よりも温かい人でした。
 ほとんど、私たちからは何も見返りを求めることもなく、私たちを養ってくれ、御宿やウガンダでの土嚢式バイオガスプラントの建設を後押し、支援してくれました。
 ほぼ自由に動き回ることができたこの期間中に多くの意識ある有機農家、芸術家、企業家、環境運動家、大学教授や政治家等々のおもしろい人達と知り合うことができました。
 また、バイオガスを通じて天理大学の先生達と仲良くなり、貧困緩和プロジェクトに参加させてもらい、ウガンダ、タンザニア、ザンジバルに同行することができました。その一環としてバイオガスプラントをウガンダに建設し、マケレレ大学でのシンポジウムにも参加することができました。
 私は、いよいよ私の聖地である七本の丘のてっぺんに自宅を建てることにしました。またしても、いつもお世話になっている不動産屋さんの紹介で、安くて地元の木を使っている建築屋さんを紹介してもらいました。現場監督は私がして、基礎と躯体の建設を格安で施工してもらい、あとの内装や設備は全て私が行いました。
 地元材での杉壁、檜の床、コンポスト・トイレ、ビオトープでの雑排水浄化、雨水利用、家庭菜園とお金がなくてもできる最低限のエコハウスをつくりました。費用は500万円弱でした。 
 しかしながら、私の人生は流転の連続で、その会社も今年の春(2008年)、自宅の完成と同時に倒産してしまいました。
 結局、私のやりたいこと、すべきことをするためだけにその人にはお世話になったようなものでした。

 失業しましたが、すぐに前からあこがれていた有機酪農牧場に就職することができました。

 が、それから、また二転三転、紆余曲折がありました。

 続きは、ブログで。

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