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2011年7月26日 (火)

子ども縁日

 自ら死のうとしたことはなかったが、死んでもいいと思ったことはあった。

 正確には、本当にしたいことをする為には、死んでも仕方がないと思っていた。

 カンボジアの外国人立ち入り禁止区域に入った時や、外国人退去命令の出ていたアフガニスタンに入った時は、事実を知るためには、死という最大のリスクを負ってでも、自分自身の目で見るしかないと思っていた。

 

 随分と前に撮ったアフガンでの写真が白いスクリーンに映し出された。

 見えない銃弾が岩陰からパパパパンッと飛んでくる。どことなく緊張感のない銃撃戦の礫漠を抜けた後、パンク修理に追われる乗合バス。後部ドアに大きく書かれた「東京ちんみ」。

 22名の年齢も性格も趣味も経歴も違う人々が、喰いついてくるのを感じた。ツカミはバッチリだ。

 「まちづくり」NPO代表のKさんが、ハローワークの新しいカリキュラムで職業人講話の講師としての仕事を、手塚さんを通じて私にオファーしてくれた。

 牛舎8号やおんじゅくオーガニックの活動を話してくれと言うのだ。

 一日限り。50分×3コマの「授業」。

 手塚さんはともかく、私はどちらかというとハローワークにお世話になりっ放しの人間だ。人様に教えるような立場ではない。

 躊躇したが、少なくとも、手塚さんの背中を見てきた私だ。今しかできないその申し出をありがたく受けることにした。

 

 いざ、始めてみると、みんなの反応が心地よくて、私の「自己紹介」はどんどん脱線していった。

 カンボジアの立入禁止区域は、実はルビーと香木の産地で、マフィアがそれらを守る為に軍隊を使って村人を追い出したり殺したりしているという事実。

 そのパイリンという村では、雨の後、地面からルビーの原石が涌いてくる。ほとんどの村人がルビーの原石を手の平いっぱい持っているにもかかわらず、クメール・ルージュの圧政と厳罰により、扉に鍵を掛ける必要がまったくないくらい治安が良い。

 世界3大地雷地帯の二つがあるのが、アフガンとカンボジア(もう一つは旧ユーゴ)。一本のハケを手に、腹ばいで地雷を探し、信管を抜いて不発弾にするdeminer(ディマイナー)という「職業」がある。地雷の金属ケースを屑鉄屋に売って生計をたてる。金属ケースには無数の縦横縞が入っている。爆発の際、粉々に飛び散り、生き物を傷つける為だ。その金属ケースはわずか1ドルにしかならない。

 話すつもりもなかったし、忘れていたことが、次から次へと頭の隅から涌いてきて、私の「自己紹介」はひどく長いものになった。

 その後、たっぷりと時間を掛けて、みんなにも自己紹介してもらった。

 50分1コマと念を押されていたのに、結局、一コマ目は80分位掛かって終了。

 どちらが先生だか生徒だかわからないようなすごい面子で、最初は試されているように感じていた彼らの視線が、明るくてあたたかいものになった。

 

 その3日後、牛舎8号で子ども縁日が行われた。

 蛙の企画・主催で多くのママさん、仲間達が協力してくれた。

 当日は、あいにくの雨。

 が、蛙と子どもは雨が大好きだ。

 「せっかくの浴衣がびしょ濡れになる。」

 「放射能があるから。」

 と、やきもきしているのは人間の大人だけだ。

 金魚すくい、かたぬき、お菓子すくい、輪投げ、宝つり、ヨーヨーつり、ラッキーナンバー・フィッシング…。

 屋台や移動カフェもある。

 水たまりなんか気にしない。空からの放射能も気にしない。

 子ども達は無意味な奇声をあげて駆け回る。

 「もう一回やりたい!」

 と駄々をこねて泣く子ども。

 ただ、純粋に楽しむだけのイベント。

 こども達の喜ぶ姿が見たい、その一心だけで一生懸命な大人達。

 雨は昼頃には止んだ。

 大きな虹が空にかかっていたに違いないが、みんな子ども達の笑顔を追うのに必死で、空を見上げる余裕なんてなかった。

 

 事実を知るためには、自分自身の目で見るしかない。

 それは真実だと今でも思う。

 だが、その為に死んでも仕方がないとは思わなくなった。

 自分より大切な命ができたからだ。

 いつの間にか、私は、ただ楽しむということを忘れてしまっていた。

 常に何か見えない敵を求めて、そこに自分自身の存在価値を見出そうとして…、追っていたのは、鬼と化した自分の影。

 全ての終わりが近いうちに来る。巷でまことしやかに囁かれる「噂」。

 懸命に、泳ぎ方もわからずに私の後を追ってくる子ども達。

 そこには常に笑顔があってほしい。

 それを守る為なら、ひょっとして、死んでも仕方がないのかも知れない。

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2011年7月15日 (金)

4LEGS オープンイベント

 この世は、一瞬一瞬が、選択肢だという考え方がある。


 常に明滅していて、物質だと思っている自分自身も世界そのものも、実は99%が空洞で、最後の最後に見つけた物質も、実はちっぽけな振動でしかなく…物質なんてものはそもそも存在していない。それら無限の波が重なり合って初めて映写される幻のような人生。

 その無限の重なりは、更に無限に重なり合う。

 それを選択できるのは自分だけ。

 

 ちっぽけな自分の、今この一瞬の選択で、大いなるもの全てが変わる。

 言い換えれば、世界なんてものは、ちっぽけな自分自身の脳が創り出した偉大な錯覚に過ぎない。

 そう考え、いや、実感して、私が感じたのは絶望ではなく、途方もなく強大な希望だった。

 

 因果応報という言葉がある。全ては自分自身が創り出した原因と結果だと。

 けれども、カンボジアで足を吹き飛ばされた子ども達はどうなんだろう?

 理由もなく、苦しみ、死んでいく人達のなんと多いことだろう。

 対して、着るもの、食べるもの、住むところに不自由もせず、不平不満を言う人々。

 どちらが天国に近いのだろう?

 

 重労働や貧困が人々を不幸にするわけではない。

 親友が言っていた。お金持ちの知り合いで幸せそうな人を見たことがない。


 答えなんてどこにもない。

 ただ答えを探して歩き続けることだけが正解だ。


 なかのまきこちゃんは、決して、雄弁ではない。

 説教じみたことを言ったことなど一度もない。

 けれども、彼女の生き方が、多くのことを気づかせてくれる。

 私にとっては、自ら羽を折った天使だ。

 いつもちっぽけで、物質に囚われた私の目を醒まさせてくれる。


 なかのまきこちゃん、魅酒健太郎さん、これ以上に4legsのオープンイベントにふさわしい二人はいない。

 偶然ではない、これら無限の波の重なりに、最大の感謝を捧げたい。

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2011年7月14日 (木)

航空防除

 毎晩毎晩、尿意を催すと、私は下駄を履き、外に出て立ち小便をする。

 

 一歩、外に出ると、無数の虫の音、数種類の蛙の輪唱、森の彼方からは断末魔じみたキョンの叫び、思慮深げに月に呼びかけるふくろうの声…、それら無数のサウンドが、見えない波のように押し寄せてまるで浜辺の砂に吸い込まれていくように、私の鼓膜を煩わすことなく消えていく。

 心地よい自然の静寂

 見上げると、そこにあるのは夜空ではない。なんの仕切りも境界もなく、頭のすぐ上に広がる宇宙空間。空気があって呼吸できるのが不思議なくらい

 星でぼんやりと白く煙る、真空でエネルギーの奔流に満ちた「暗闇」

 ぼーっと見上げていると、目が回ってきて、そのまま無重力状態になりそうだ。

 音に包まれた静寂と光に満ちた暗闇があって、一人なのに何かに見守られているような安心感がそこにある。  

 

 バカの丘のてっぺんに建つ我が家は、上水道を引いていない。

 雨水と地下水を150πのヒューム管と竹炭で自作した濾過装置を通して1200Lのタンクに貯め、加圧ポンプを通じて生活用水を賄っている。

 なので、基本的に水道料金は掛からないが、丘の麓にある井戸の水をてっぺんの我が家まで汲み上げる電気料金が毎月5000円程掛かる。

 上水道を引いていない理由は明確だ。

 引き込み料金がべらぼうに高いので選択の余地がない。が、私は「きれいな水道水」をあまり信用していないので、いずれにしても恵まれた環境にあるバカの丘で、上水道を使うことはなかっただろう。

 事実、娘のアトピーはほとんど気にならないレベルになったし、うちの生活雑排水を一時的に溜める小池には、モリアオガエルが卵を産みにくるようになった。

 丘の麓の井戸のポンプは、以前は、てっぺんにある貯水タンクの水位が低くなると自動的に発動し、いっぱいになると、自動的に停止した。

 けれども、センサーが故障して、全て手動で行わなくてはならなくなった。

 なので、洗濯物の量が半端ではない我が家で1週間もポンプを回すのを忘れると、タンクは空になり、家の給水ポンプは空回りして、一滴の水も使えなくなる。

 何度か水のない時を過ごす事があった。

 うちのトイレは、自作のコンポスト・トイレなので、トイレでの不自由はないのだが、シャワーや流しで、水が出ないという精神的な不安はかなり大きい。

 複雑な我が家の水系システムは熟知していたが、これも電気が止まれば全て終わりだ。

 

 ほんの数日前、タンクの水量が気になって、夜7時すぎ、下駄をひっかけて、丘の麓のポンプ小屋までカラコロと歩いていった。高低差十メートル(海抜95m位?)の急勾配だ。下駄の鼻緒が足に食い込む。

 以前、目の前の道路に突如、白いふくろうが舞い降りてきたことがあった暗いので、白く見えただけかもしれないが。それは鮮明な夢なのか朧げな現実なのか?記憶は曖昧になっていく。

 足音を響かせる度に、山の斜面の森の木がガサガサと大きく揺れ、何かが(恐らくは猪が)、私の後をついてくるような時もあった。

 その夜は、そんなドラマチックな展開はなかった。

 …が、驚いた。

 消え入るような緑の光が、私の視界を掠めて消えた。と、思うと今度は、小さくも、より明るい光が目の前を横切った。

 より大きな光で、より高く飛ぶゲンジボタルに比べると、人知れず飛ぶヘイケボタルの慎ましい謙虚な光。

 翡翠色の小さな光が数個、私の周りをとりまくように、泳いでは消えていく。

 たった一人の深海散歩。

 

 

 私が、ここに移り住んで良かったと思うのは、夜、外に出て、立ち小便をしながら、満点の星空を眺める時だ。

 その夜は、丘のてっぺんだけでなく、麓でも星空に包まれることができた。

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2011年7月 1日 (金)

ボレロ

 ゴロゴロゴロゴロ……

 まるで、戦闘機が飛び交っているかのように、ひっきりなしに雷鳴を轟かせ、溶けた白金の稲妻を飛び散らせながら、低い灰色の雷雲が、牛舎8号へ突如襲来してきた。

 ビタビタと降り出した雨が、あっという間にプロムナードのコンクリ上を流れ出す。

 

 こういう日、私達の二人の子どもは、どちらかが、原因不明の熱を出したりして、保育園や学校を休むことが多い。

 311大地震の時は下の子が前夜に嘔吐して保育園を休んだ。

 今回は、上の子が朝から熱を出して昼から休み。

 家が心配になって、軽トラに滑り込もうと傘を閉じ、荷台に放り込んだ一瞬に、シャツはぐっしょりと濡れそぼつ。

 エンジンを掛けると、23日前から漂い始めた焦げたようなオイル臭がシート下から漏れてくる。

 土砂降りの雨の中、バカの丘を登っていく。二段階の最速ワイパーが左側から振りつける水の塊をジャバジャバと泳ぐようにはねのける。一方で、右窓から見える丘の麓の風景は、左窓の豪雨とは対照的に穏やかだ。白く煙る水田とくねくねと曲がる道、頭上には、早くも明るい黄金の光が雲の上に広がり始めている。

 毎日、通うこの風景が、まるで、天上の神々に出会う最後の重要な式典のように思われた。

 崩れゆく世界、最後の嘆願書を持って、天上へと登る愚かな人間。  

 

 311以降特に、生活の、というか活動のリズムがどんどん早くなってきているように感じる。

 歳をとっていくにつれ、誰もが感じる錯覚なのか?

 私は、地球の自転が、実はどんどん速くなってきているのに、電波時計がそれを懸命に隠しているのだと想像してみた。

 けれども、牛舎8号にある何十年も前に作られたセイコウ社の柱時計は、見えない電波の助けを借りず、毎日、驚くほど正確に時を刻んでいる。

 以前に、この柱時計が、ぴたりと止まってしまったことがあった。ゼンマイすらも固くて巻けなくなってしまった。それが、311大地震の後、何事もなかったかのように、再び時を刻み始めた。

 頑張れば100年動きそうな古時計だったので、再び動いてくれてホッとした。だが、同時に、天上へと続く階段に、急いで登らなければ、足元から崩れゆく致命的な亀裂が入ってしまったようにも感じた。

 やることがいっぱいある。右と左の足を同時に出そうとして転んでしまう。落ちかけて、砂で固められただけの固くて脆い階段に両の手で辛うじてぶら下がる。

 

 そんな焦燥感に追われるある日、いすみ市広域的市民提案事業に応募した。

 手塚さん達がワゴン車と支援物資を届けに、岩手県山田町へと向う前日の夕方のことだ。そとぼうワールドの目羅さんに事業の応募資料をもらった。

 補助事業というのは、面倒なことばかりだと敬遠していた私は、例に漏れず、軽トラのシートの裏に応募資料を無雑作に放り込んだまま、何日も放置していた。

 それが何かの拍子で、私の気まぐれが頭をもたげ、締切り1~2週間前に慌てて引っ張り出した。応募用紙に手書きで殴り書きする。

 それを見つけたのが牛8のメイン生産者の一人アミーゴSさん。川崎市役所で、危うく命を引き換えにしそうになりながら、何十億円の仕事を一人でこなした「元公務員」だ。何気なく、私の殴り書きを関心なさげに見ていたが、次第に眉間に皺が寄り始めた。

 それからが大変だった。

 「どうせやるなら…」

 が、合言葉の牛8メンバーズ。

 手塚院長も闘志満々で加わってくれ、とことんやらされる羽目になった。

 

 応募には、おんじゅくオーガニックの看板を使うことにした。法人化の為の書類は何年も前から揃えていたが、任意団体としては余りにも大仰な定款だったので、いすみ市最強でありながら、未だに任意団体で押し通る「夷隅郡市自然を守る会」の会則を流用させてもらうことにした。

 役員もあらためて選任し、副会長の「せんげん様」始め牛8メンバー、谷津田再生会、自然を守る会に手話パフォーマーまで加わって、今までで最強の布陣になった。

 「表には絶対出ない。役なんかしない。」

 と、言い張っていたアミーゴSさんだったが、

 「会計監査には<うるさ型>がいい。」

 と本人が言っていたのを思い出して、役員名簿の会計監査の欄に、彼の名前を無断で入れた。事後承諾ではあったが、彼は「しょうがねぇなぁ~。」と、笑顔で快諾してくれた。

 そんなこんなで、アミーゴSさんに言わせれば「付け焼き刃もいいとこ」ではあったが、一通り以上の体裁を整え、書類提出は無事に(ではなかったが)済ませることができた。

 

 書類提出の次は、プレゼンだ。

 この時点で、私の中では、事業の補助金をもらう為というよりも、「おんじゅくオーガニック」の存在意義そのものを、審査員にではなく、自分自身や仲間達に問われているような気がし始めていた。

 獣の道を、自分一人で薮をかいくぐり、這うようにして歩いてきたつもりが、今や、一人ではなく多くの仲間達が一緒に小道を歩いてくれる。

 年齢も性格も趣味も経歴も違う人々。ただ、歩く道だけは同じ。

 その道の行き先を、はっきりと自分自身と仲間達に伝えるためのプレゼンだ。 

 

 当日、見かけによらず(といつも言われる)、あがり症の私だが、媚びることも高圧的になることもなく、言いたいことを言うことができた。

 なぜなら、審査員さん達の後ろには、家族同然の牛8の仲間、夷隅郡市の仲間達がじっと見守ってくれてたからだ。しかも、私の隣りには、<会計監査>のアミーゴSさん、<幹事>の手塚さんが睨み(?)を効かせている。

 安心して、心を込めて、話をすることができた。

 

 内容は、プレゼンの最初に集約されている。

 戦争や飢餓などの「嫌なこと」をなくすには、地域レベルで循環型の農的な暮らしを目指していくしかない。

 けれども、それは楽しくなければ続かない。

 その為のイベントやライフスタイルを思いつく限り実行していく。

 内容は、いすみ市を意識しながらも、御宿をメインに、ウガンダや沖縄、アフガンと話は飛んで、いすみ市とはかけ離れた部分も(かなり)あった。

 けれども、そこをアピールしなければ、やる意味がないと密かに私は思っていた。

 その点について、若い審査員長さんがソフトに、だが、真っ正面から突っ込みをいれてきた。

 「いすみ市とはどう絡んでやっていくか?」

と、いうような質問(だったと思う)に、

 「行政区なんてクソ喰らえ!

 とまではいかないが、そういった意味のことを丁寧に笑顔で伝えると、その爽やかな審査員長さんも黙って笑顔で頷いてくれた。

 

 「小沢、実谷、荻原、なぜこの三箇所なのか…?」

 他の審査員さんから、谷津田のことで質問があったので、手塚院長が替わりに答えてくれた。

 「私は、この三つの地域が夷隅郡市の代表的な谷津田だと思っています。」

 自信を持って言い切った。

 確たる根拠はないのに、揺らぎないその自信たっぷりの回答に、聴衆も審査員も一瞬、息を呑んで頷いた。

 そして、私(達)は、またまた、この気短で偉大なる医院長を誇らしく思ったのだった。


 事業の審査結果は今月頭にはわかる予定。



 

 

 たった一人、荒野の道なき道を歩いている。

 黄色い砂埃だけが、足元を払って、吹き抜ける。

 昼は、太陽の所在もつかめない砂嵐の中、夜は気まぐれな月明かりだけを頼りに、単調で先の見えない歩みをのろのろと続ける。

 

 自信のない歩みが徐々に自信を帯び、軽やかなステップに歌声が混じり出す。

 その理由はただ一つ、旅人は、一人から二人、二人から三人になり、三人が大勢になったからだ。

 いつの間にか、空は晴れ渡り、道がくっきりと遥か遠くの高みへと続いているのが見える。

 旅人達は、初めてお互いの顔をはっきりと見ることができた。

 

 年齢も性格も趣味も経歴も違う人々。

 ただ、歩く道だけは同じ。

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